ひとりで夫の介護を頑張った祖母の思い出--☆
私の両親は京都生まれの京都育ち。
子供の頃は、学校が休みになると祖父母の家に遊びに行った。
8月のお盆は地蔵盆う風習があり町内ごとに地蔵の周りにテントやござが敷かれて民家の2階から福引の景品を籠に入れておろすイベント「かごおろし」などが行われた。
また、地蔵盆とならんで楽しみだったのが 8月16日に大文字焼き。
祖父母の家が下京区だったので金閣寺近くまで歩いて観に行ったものだ。
子供の頃、学校の休みごとに京都に行っていたのがなつかしい。
父の運転する車で、一日かけて移動したり、小学校高学年になると私一人、新幹線で京都に行き休みのあいだ中滞在した。
きっと交通費が大変だったし、父はそんなに長居はできないからおのずとして母も長居できないもんね。
母方の祖父は私が3歳の時に脳溢血で倒れ半身不随で11年間ベットで寝たままの生活だった。
病院に、運ばれた時は覚悟しておくように言われたが、新薬を使い一命をとりとめたと随分経ってから母がはなしてくれた。
祖母が散髪屋を営み生計をたてていた。
母には兄がいたが結婚して家を離れていたため、祖母は人を雇って散髪屋を切り盛りしていた。
我家は関東に住まいがあったので母はたやすく実家の手伝いを することはできなかった。
学校の休み利用して私は、母に代わりに祖母の家事の手伝いをした。
でも、今考えると年3回の京都までの往復の交通費は若い両親にとって決して安いものではなかったと思う。
また、今、私があの頃の祖母と同じくらいの年齢になってみて、夫が半身不随になり、11年もの間自宅で夫の介護をしながらがんばっていた祖母は 改めてすごかったと思う。
祖母の店はとても繁盛していた。
一日立ち仕事 をし、ベットで寝たきりの話せない祖父の介護もひとりでこなしていた。
訪問介護など一切なかったから、すべてひとりでがんばった。
京都の民家は風呂がないことが多く、銭湯に行くのがあたりまえで、祖父母の家にも風呂はなかった。
祖父は半身不随だからほとんど歩けない。 つまり銭湯に行くのはムリ。
そこで、祖母はDIYでひとりで祖父用の風呂を家の一角に造っていた。
お湯を台所で沸かしては湯船にためて、2階から祖父をおぶって1階の自家製風呂に連れて行きお風呂に入れ、ふたたびおぶって2階のベットまで連れて行く…。
自分におきかえてみて、ダンナ君をおぶってなんて体力をもつあわせてないし私は絶対ムリだと思う。
さらに心に引っかかっているのが、話せない祖父とコミュニケーションをとろうとしなかったこと。
祖父は、右半身不随だったから、話せず、右手は動かず筆談も無理だった。
身体が不自由だけど、思考•感情などは正常だったはずで、そのことを思うと祖父はどう思っていたんだろうと今更ながら思う。
もっと祖父とコミュニケーションをとればよかった。
11.年の間祖父母は夫婦のコミュニケーションをどうしていたんだろう。