「つなぎとめようとする側」「つなぎとめられる側」という図式--☆
人はこの世に生み落ちて「愛」にであう。
不幸にしてその愛に出会わなければ命を落とすこともある。
私は56年間なんとかいろいろな愛に守られてきたと思う。
そして「愛」は永遠のものではないと思っている。
たぶん子供の頃から「愛」をテーマにした物語にふれてきた。
最近観た映画「君の名は」も究極の愛の形だと思う。
人は「愛」によってその生命を守られる。
幼い頃から母に名作と言われた映画や小説に触れ合う機会を与えられていた。
そして私の中で本当の「愛」は永遠だと刷り込まれた。
しかし、人間社会にそんな「愛」は存在するものなのかと思うようになった。
私の知り合いの夫婦は、
結婚前に初のクリスマスのデートで行ったレストランで
女性が店に入ってすぐに化粧室に行った、
戻ると男性の姿がどこにもなかった、
一生懸命探したが店の広さはそこそこだったがどこにも見当たらなかった。
でもあきらめずに1時間以上も探し続けたら
店の中で男性に会うことができた。
その店には食事をできるエリアとティールームと2つのエリアに分かれていた。
その話が象徴するように、
男性はふたりの子供が生まれた頃、妻と一緒にいたくないと実家で暮らしていた。
その夫婦ののちの人生は、年に2,3度会う生活となった。
乙姫と彦星、つまり、別居である。
出典:深町なかさんのイラスト 素敵過ぎます❤
そして、70歳を目前にしてようやく男性は妻の元に戻った生活をしている。
きっと男性は女性の「愛」が失われないこと、
たぶん失われることを怖れなかったんだろう。
そして、妻は男性を愛し最後は自分のところに戻ってくる「愛」の確信があった。
「愛」とは、ひとを縛るものであると思う。
「愛」がなければ、人は糸が切れたタコのように何処かにいってしまう。
だから「愛」を失いたくないという想いは、切れそうな「愛」をつなぎ止めようとする。
それは「つなぎとめようとする側」「つなぎとめられる側」という図式。
お互いが「つなぎとめようとする側」が「君の名は」だったと思う。
「君の名は」を観て私の中の合点がいったことがある。
「え!」っていう感情、長年その感情の正体が分からずに困惑していた。
それは「つなぎとめられる側」にどっぷり浸かっていた私なりの感情なんだと分かった。
「つなぎとめようとする側」から「愛」が消えていたことにまったく気がついていなかった。
きっと私の中に「愛」は永遠なんて乙女チックな妄想があったからだ。
そして自分は「つなぎとめられる側」であり続けるというおごりがあった。
ある日、父にから捨てられたと嘆く私に相方が
「あなたの生死にかかわる時、お父さんが俺にこれからはお前が守るんだ」
って言って父は私の元へは行かなかったという話をしてくれた。
この話を聞いたときに「愛」が失われたのではなく
「愛」のバトンタッチが行われていたんだと気がついた。
私は幸か不幸か愛情いっぱいに育てられた、
そして「つなぎとめられる側」があたりまえの人生を長く過ごしたために
「つなぎとめようとする側」のキモチが希薄なんだと思う。
自分の「つなぎとめられる側」パワーがなくなってきたことには大いに困惑しつつも、「つなぎとめようとする側」のキモチが少ないがためにたくさんのタコのひもを切ってしまった。
例えば、夫が別の女性に心奪われたときに、
最終的には「つなぎとめようとする側」のパワーなく、
タコの糸を切ろうとしたのは私だった。
だから、私の中では
誰に対しても私に対する「つなぎとめようとする側」のパワーがなくなったとしても、それはしかたないことと受け止めている。
それが自分の器量であるから。
人間は死ぬ時はひとりなんだし…。
そう言えば、昨日、以前「派遣ごときが…」と一喝された御仁に「あのとき、解析していただいて…」と言われた。
なんだかとてもうれしかった。
人生悪いこともあれば良いこともあるもんだ。